かけいななこの絵日記

絵を交えて色々なことを思考します。

ジル・クレマン連続講義1「都市のビオロジー」

ジル・クレマンというフランス人をご存知でしょうか。

庭師、ランドスケープ・デザイナー、小説家、植物学者、昆虫学者など様々な顔を持つ人物です。

 

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今回は、そのクレマンが初来日・連続講演をするということで、東京・恵比寿にあります日仏会館まで足を運んできました。

講演のテーマは「都市のビオロジー」

ビオロジー(biology)とは辞書で引くと、①生物学 ②植物相 のことと出てきます。

クレマンは新種の蛾を発見するなど生物学者としても活躍していますが、今回のお話はどちらかというと②の意味合い、つまり都市における②植物相のお話でした。まあ植物相が変わる→そこに住んでいる生物が変わる、という意味では、①、②どちらもでしょう。

 

中心となるキーワードは、

「第三風景」 

 

第三風景とは、都市の中で建物や道路の合間にぽつんと存在する雑草や灌木が自然に生い茂るままに残されている場所のことです。言わば、都市の隙き間という感じでしょうか。普通ならば誰も評価しないようなこの場所を、クレマンは積極的に評価していきます。

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なぜこの「第三風景」が大切なのか?

それは、この場所が、画一化され整えられた都市の中で唯一「多様性」を保っている場所であるからです。つまり、様々な植物や生物が、人間の意図を直接的には受けず思いのままに生い茂っている場所なのです。

 

クレマンは、各国に多くの庭や公園を作っています。そして彼が庭を作る時、大切にすることが、この動植物の意思や多様性であるのです。

普通、「庭」というと、私たちは広い芝生の上に、程よく設置された樹木や花々を思い浮かべます。用途や景観に沿うように、美しく刈り込まれた植物たち。それは「装飾のための庭」と考えて良いでしょう。そこで求められるのは不変性です。

しかしクレマンの作る庭は、こうした庭とは全く違うものです。

クレマンの庭では、植物の種子は撒かれたあと、必要以上に手が加えられることはありません。そうすると、植物たちはどうするでしょうか。動くのです。

例えば、ある場所に高い樹木が育つと、その下の背の低い植物は日光を求めて根を外へとはり出していきます。その他にも、鳥などの動物が偶然運んできた種子によって、最初に庭を作り込んだ時とは全く違う植物相になることもありえるでしょう。

 

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しかしながら、注意を促しておきたいのは、クレマンが考える多様性とは「何もしなくても良い」ということではない、ということです。確かに「何もしないこと」は最良の判断かもしれません。なぜなら、人間が何もしなくとも、自然は全くもってうまくやっていけるからです。

しかし、人間もまた自然の一部である限り、自然と全く関らない生き方はあり得ません。では、一体どうすることができるというのでしょうか?

 

 

講演の中でクレマンは、人間と自然の関り方について、ひとつのヒントとなる非常におもしろい例を出してくれました。それは「ドードー鳥とある植物」の話です。

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ドードー鳥はかつてマダガスカル島に生息していた鳥です。しかし、その警戒心の薄さや地上で暮らす生活スタイルのため、外来種に捕捉されやすく、発見されてからわずか80年たらずで絶滅しまいました。

そして時を同じくして、ある植物もまた全く発芽しなくなったのです。

この関係に気づいた研究者は、その植物が、ドードー鳥によって飲み込まれ、排泄されるというプロセスを経ないと発芽しないのではないかと考えました。

そこで他の鳥に、種子を飲み込ませ、排泄させたところ、見事90%の種子が発芽したそうです。

このように、人間が介在することで、植物の絶滅を回避することもあり得るのです。

 

自然を大切にしよう!エコ活動を!と叫び、エコバッグを持ち、車に乗らないという選択をすることよりも、都市の中で道ばたの雑草の生え方に目をやること、ちょっとした空き地に生い茂る植物の生態を考えること、そしてそれらと私たちの関わり方について思考すること、こちらの方がもしかするとより実りがあるのかもしれないと考えた午後でした。

 

クレマンの著作について、2/26に、初の!邦訳が出ます。

 

動いている庭

動いている庭